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zoom RSS 【家康改葬(7)】〜側近「天海」が推した栃木・鹿沼の薬王寺は別格

<<   作成日時 : 2015/03/08 15:09   >>

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 産経新聞の歴史関連記事、徳川家康400回忌に合わせた企画『家康改葬』の第7回、宇都宮支局高橋健治さん執筆の記事の御紹介です。

 佐野の惣宗寺を出発した徳川家康の霊柩(れいきゅう)は元和3(1617)年3月29日〜4月3日の4日間、栃木県鹿沼市の真言宗智山派薬王寺に滞在した。改葬道中の止宿で最も長日にわたる。
 第30代住職の倉松俊弘さん(58)は「日光での埋葬準備や日を選んだためとも言われるが、本当のところは分かりません」と言いながら、「止宿の間、盛大に法要したのは間違いないと思います」。今でも、2、3日かける大がかりな供養があるという。
 「邪気が入ってはいけない」と寺の周囲を竹の塀で覆って、霊の安置場所を結界で守り、昼夜法要が営まれたとみられる。
 薬王寺縁起によれば、薬王寺は鎌倉時代の弘長年間(1261〜64年)の創建と伝えられ、寺には、家康遷霊の道程を記した寺宝「東照宮渡御之記(とぎょのき)」が残る。
 なぜ改葬列は、この寺に止宿したのか。倉松さんは「天海と、関東一円の触頭(ふれがしら)だった当寺の住職、俊賀(しゅんが)が親しい間柄だったのではないか」とみている。家康の側近で日光遷座を主導したとされる僧、天海は、埼玉県川越市にある関東天台宗の本山、喜多院の住職を務めるなどし、天台宗と真言宗の宗派は違えど、仏教界の要職同士付き合いが深かったのは当然だろう。「そうした縁で天海が当寺を改葬の旅程に組み込んだのだと思います」
 薬王寺と徳川家との関係は、家康にとどまらない。孫の家光と天海自身の日光葬送の際にも、止宿先に選んだことで明らかだ。
 境内には、家光の廟、日光山輪王寺大猷院奥院にある宝塔と同じ鎧塔(よろいとう)が建ち、明治までは東照神社があった。
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境内に入り、すぐ左にある徳川家光の墓(日光山輪王寺大猷院奥院)と同じ鎧塔=栃木県鹿沼市石橋町の薬王寺

 倉松さんは「先代から、かつて寺には家康公の刀や草履があったと聞かされました」と話す。だが、貴重な史料は寛文3(1663)年の火災で焼失してしまった。

 寺は何度か建て替えられたが、本堂には、色鮮やかな竜の彫刻が施された欄間があり、本堂入り口の石段の上にも立派な白木の竜がかかる。
 「日光東照宮造営で当地に来ていた宮大工の棟梁(とうりょう)とその弟子たちの作」(倉松さん)ということで、市内の寺には、当寺の宮大工や造営の仕事をきっかけに関東近辺に住み着いた職人らの彫刻が数多く残る。
 鹿沼市は、木工と「ぶっつけ」で有名な彫刻屋台が知られるが、その彫刻は豪壮、緻密。東照宮の絢爛(けんらん)豪華な彫刻の数々を生み出した職人たちの技が今も生きている。(宇都宮支局 高橋健治)

*2014.02.07 産経新聞HPより
(http://www.sankei.com/life/news/150207/lif1502070003-n1.html)

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コメント(1件)

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ここで天海が出てくるか。明智光秀だったていう説もあるけど。
井出浩司
2015/03/08 19:34

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