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zoom RSS 【官兵衛を探る(9)】

<<   作成日時 : 2014/05/10 15:03   >>

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 産経新聞WESTで連載中の黒田官兵衛の記事です。

「一夫一婦」誓った官兵衛の「誠実」と「周到」…側室・世継ぎが多いだけでは意味がない

 官兵衛は永禄10(1567)年、数え22歳で家督を継ぎ、御着城主小寺政職(まさもと)の媒酌により志方城主櫛橋伊定(くしはし・これさだ)の娘光姫(てるひめ)=雅号・幸圓(こうえん)=と結婚する。この結婚は伊定が政職と誼(よしみ)を結ぶための政略結婚であり、伊定は早くから官兵衛に注目していた。このとき、光姫は15歳、才色兼備の大柄な女性であったといわれている。そして翌年には嫡男松寿丸(後の長政)が生まれる。
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官兵衛が光姫と暮らした福岡城の御鷹屋敷跡(今藤久夫さん提供)

 官兵衛はこの後、播磨、四国、中国、九州、朝鮮などを転戦するが、光姫を唯一の妻とし、側室を持たなかった。これは光姫が官兵衛をしっかり支え、家臣からも慕われるよき妻であり、官兵衛も光姫に満足し、夫婦円満であった表れである。また、官兵衛はキリスト教に入信し、その教義に一夫一婦があり、キリシタン大名たちは皆これを守っていた。
 戦国武将は一夫多妻が普通であり、そんな中で一夫一婦を実践するのはそう簡単ではない。信長、秀吉、家康はじめ多くの戦国武将が側室を持ち、子供を多くもうけて、その中から優秀な跡継ぎを選び、また政略結婚によって勢力を維持、拡大させようとしていた。このような当時の常識からすれば、官兵衛の生き方は勇気が要ることであり、また危険な生き方であったといえる。事実、官兵衛には光姫との間に息子が2人だけしかおらず、14年ぶりに生まれた二男熊之助は16歳の時に亡くなり、跡継ぎは長政だけになっている。

 万事に用意周到な官兵衛は、妻1人で跡継ぎが少なければ家系が断絶する恐れがあると考えるが、同時に足利家、赤松家をはじめ多くの武家で妻、側室を巻き込んで家督相続争いが生じた先例をも学び、跡継ぎが多いだけでは家系は安泰にはならないと考えたに違いない。そんな官兵衛は少ない跡継ぎを立派に育てることに全力を注ぎ、戦いの場などでも機会をとらえて一族、家臣をよく教育した。長政に万一のことがあれば彼らの中から養子を迎えようと考えたのであろう。そこには生涯1人の妻を守った官兵衛の誠実な生き方が見える。
 戦いに明け暮れた官兵衛は晩年、太宰府天満宮や福岡城の一角で光姫と静かに暮らし、慶長9(1604)年、伏見で59歳の生涯を閉じる。光姫は出家して照福院と称し、黒田家を見守り、官兵衛、長政、熊之助の菩提(ぼだい)を弔いながら寛永4(1627)年、福岡で75歳の天寿を全うする。
 夫と2人の息子に先立たれたが、光姫は戦国の世の女性として幸せな生涯だったであろう。
=播磨の黒田武士顕彰会理事 今藤(こんどう)久夫

=続く

*2014.02.02 産経新聞より(http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140202/wlf14020212000014-n1.htm)

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コメント(1件)

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官兵衛殿の息子さんは、一夫一婦制だったのだろう。
井出浩司
2014/05/11 10:18

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