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zoom RSS 【満州文化物語】(10)愛された歌 夢とロマン、情熱込めて

<<   作成日時 : 2014/04/12 17:02   >>

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 産経新聞の月一連載「満州文化物語」です。

縁深かった東海林太郎
 「赤城の子守唄」「国境の町」などのヒット曲で知られる歌手の東海林(しょうじ)太郎(1898〜1972年)は満州と縁が深い。父は満鉄(南満洲鉄道)の社員。自身も旧制秋田中から早大商学部を出て満鉄に入り、調査部などで7年間サラリーマンをしていた。
 だが、どうしても歌手になる夢を捨てきれない。日本に帰り、草創期のオペラ歌手で藤原歌劇団の総監督も務めた下八川圭祐(しもやかわ・けいすけ)の門をたたく。同門には“日本一の美声”とうたわれたテナー歌手で戦後、家族とともに帰国事業で北朝鮮へ渡った、永田絃次郎(げんじろう)(本名・金永吉)がいた。
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 東海林は、クラシックの歌手の道に挫折し、当時は一段低く見られていた流行歌にくら替えしたものの、なかなかヒット曲に恵まれない。チャンスをくれたのは、満州時代の知り合いであった作詞家の藤田まさとである。
 「赤城の子守唄」(1934年)の企画者だった藤田は、歌い手としてリストアップされた東海林との再会を喜び起用を決める。歌は大ヒット。無名の東海林は一躍、スターダムにのし上がった。

ブーム呼ぶ「曠野(こうや)もの」
 同年、東海林はもうひとつのヒット曲と出会う。満州を舞台にした「国境の町」だ。
 1931(昭和6)年の満州事変、翌年には関東軍主導で満州国が建国され、多くの日本人が新天地を夢見て大陸へ渡る。こうした時代を背景に、流行歌の世界では「曠野もの」「満州もの」が人気を呼んだ。「国境の町」はその代表的な歌である。
 菊池清麿著『国境の町−東海林太郎とその時代−』を見てみよう。《東海林太郎にとっては、哀(かな)しみを湛(たた)え赤い夕陽(ひ)に照らされた満州は青春の地であり、歴史的な運命を感じた。(略)東海林の歌唱には万感の思いがあった。苦闘に満ちた人生体験が一層の愁(うれ)いを含み郷愁を誘った》
 東海林の満州での実体験が歌にリアリティーや哀愁をまとわせ、一層の共感を呼んだのであろう。この歌は永田がレコードデビュー(1935年)する際も「国境の夜」(日本統治下の朝鮮で発売)として使われている。
 「曠野もの」「満州もの」は満州の地への国民の憧憬、期待、感傷などをない交ぜにしてヒットを連発した。
 “我等(われら)のテナー”藤原義江が作曲し、自ら歌った「討匪行(とうひこう)」(1932年)「満洲想(おも)えば」(36年、音丸ら)「満洲娘」(38年、服部富子)など、各レコード会社も大物歌手を投入。一時のブームを起こしたのである。

中国の子も愛した唱歌
 日本を代表する作曲家、山田耕筰(1886〜1965年)も満州とは縁が深い。満州国建国十周年(1942年)の慶祝曲や“オクラ入り”になった最初の満州国国歌を山田が作曲したことはすでに書いた通りである。
 山田は、北原白秋(作詞)とのコンビで大正末期、満州の日本人の子供たちのために「待ちぼうけ」や「ペチカ」などの満州唱歌を書いている。「待ちぼうけ」のメロディーは山田が大連で聞いたチャルメラの音がヒントになったという。
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 「ペチカ」は当時満州の家でよく見られたロシア式の壁暖房のこと。2つの唱歌は戦後、日本の音楽教科書に“逆輸入”されたため、日本の小学生にその“出自”を知られないまま、愛唱されることとなったのである。
 「待ちぼうけ」は満州で中国人の子供が通う公学堂の唱歌集にも入っている。唱歌集を見れば中国語の歌が過半を占めているから、日本語の歌を“押しつけた”というわけではなかろう。作詞の白秋が1942年に出した「満洲地図」でこう述べている。《(この歌は)日満の少年のものになっている》のだと。つまり愛されたのだ。

満鉄の「現地適応主義」
 満州唱歌もそうだが、満州国建国後、行政権を同国に委譲する(1937年)まで、満州の教育は、満鉄によって行われていた。学校を建てるのも、教科書を作るのも、教員を養成するのも満鉄の仕事だったのである。
 教育の大方針は、「満州経営の中心となり、満州に骨を埋める人材を育てる」ため、土地の実情に沿った現地適応主義。満州の自然や風習を歌詞に織り込んだ満州唱歌はその代表例であった。
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「満洲新中等唱歌」集。満州の女学校などで使われた

 満鉄の元社員や子弟でつくる満鉄会(現・満鉄会情報センター)の集まりでは、開会時に「満鉄社歌」を、閉会時に「北はアムール」を合唱するのが、慣習になっていた。どちらにも、満州にかけた当時の日本人の夢やロマン、情熱が込められている。
 満鉄社歌は、1917年、社内の公募でいったん別の作品に決まったが、正式採用には至らず、25年、東亜同文書院にいた山口慎一の作詞、海軍軍楽隊の島本定吉の作曲による現社歌が採用された(社歌への正式採用は36年)。
 満鉄社歌は元社員の東海林が吹き込んだものが有名だ。同会専務理事の天野博之(1935年〜)によれば、「(東海林は)生涯、満鉄を愛し、生前は満鉄会に出席して自身のリードで参加者が合唱するのが常だった」という。=文中敬称略(喜多由浩)

 =おわり


*2014.03.17 産経新聞より(http://sankei.jp.msn.com/life/news/140317/art14031708190001-n1.htm)

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満州国国歌は山田太郎が作ったんだ。「ニイタカヤマ」は戦前で日本一高い山だった。関係なかった。
井出浩司
2014/04/13 10:23

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