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zoom RSS 【満州文化物語】(9)花開いた野球 熱狂の「実満戦」 都市対抗で最強だった

<<   作成日時 : 2014/03/30 12:45   >>

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 産経新聞の月一連載「満州文化物語」です。

 ■都市対抗で3年連続優勝
 大連の野球はかつてどこよりも強かった。
 まだプロ野球創設前の時代。2つのチーム、満鉄中心の「大連満洲倶楽部(くらぶ)」(満倶=まんく)と、他の会社や実業家が作った「大連実業団」(実業)は昭和2(1927)年に始まった社会人野球の都市対抗で、初年度からいきなり3年連続の優勝をかっさらう。さらに終戦までに準優勝3回の強豪ぶりである。
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昭和3年の都市対抗で優勝した大連実業団チーム(安藤徹氏提供)

 何しろ、両チームに集まった選手の顔ぶれがすごい。
 浜崎真二(慶大、後に阪急、国鉄監督)▽山下実(慶大、阪急)▽中沢不二雄(明大、パ・リーグ会長)=以上、満倶。岩瀬(谷口)五郎(早大、巨人コーチ)▽田部武雄(明大)▽松木謙治郎(明大、阪神、東映監督)=以上、実業=など、当時、人気絶頂だった東京六大学のスタープレーヤーがこぞって海を渡った。彼らは後にプロ野球で活躍、この全員が野球殿堂入りを果たしている。
 なぜ、これほどまでに大連に好選手が集まったのか。「わが国球界をリードした大連野球界」の著者、秦源治(はた・げんじ)(1926年〜、旧制大連二中−南満工専)は、「満鉄などがバックだったから選手の待遇がよかったのだろう。大連など都市部では生活もしやすかった。後には各大学の先輩による引きもあったのではないか。都市対抗3連覇は満鉄特急『あじあ』と並ぶ大連っ子の誇りでしたね」
 満州の文化行政を握っていた満州映画協会(満映)理事長の甘粕正彦(あまかす・まさひこ)(1891〜1945年)の存在もあった。甘粕はスポーツ、とりわけ野球に力を入れ、浜崎真二を満映に招いたほど。角田房子(つのだ・ふさこ)著の「甘粕大尉」にこんなくだりがある。《甘粕は「“日満一体”というが、何か両国民をうちとけさせるよい方法はないか」とたずね、浜崎は「一緒にスポーツをやらせるに限る」と答えた》
 やがて大連以外の奉天(現中国・瀋陽)や新京(同・長春)、撫順などでも強豪チームが生まれてゆく。かくして満州では少年野球から社会人野球まで華やかに野球文化が咲き誇ることになった。

 ■大連の街を二分する人気
 満倶と実業が対戦する「実満戦」は“満州の早慶戦”と呼ばれていた。大正2年に始まり、後には都市対抗代表の座をかけて争う対決は大連の街を二分し、市民を熱狂の渦に巻き込むことになる。
 産経新聞社のカメラマンだった安藤徹(1933年〜、旧制大連一中−明大)は父と叔父2人がいずれも大連実業の選手。叔父のひとりで長兄の安藤忍(しのぶ)は後にプロ野球東急フライヤーズの監督も務めている。「両チームとも大変なカネを積んで内地(日本)まで選手のスカウトに行っていたね。街中も商店街から飲み屋まで真っ二つで、実満戦は観客が鈴なりでした」
 彼らのプレーが、どれほど市民を魅了したことか。芥川賞作家の清岡卓行(きよおか・たかゆき)(1922〜2006年、旧制旅順高・一高−東大)は受賞作「アカシアの大連」の中で実業の田部武雄に触れている。《どちらかと言えば小柄であったその選手は、手足のバネが素晴らしく、打撃も守備も走塁も、抜群であった。(略)おそらく日本人選手の最高水準を行くものであった》
 田部は昭和10年、後のプロ野球巨人軍の母体となる「大日本東京野球クラブ」のアメリカ遠征に参加。109試合で105盗塁という驚異的な記録を達成し、アメリカの観客を驚かせた。菊池清麿著「天才野球人田部武雄」はこうつづっている。《田部が三塁ベースに立つと「タビー(田部の愛称)、タビー、ゴー、ゴー、ホーム」という歓声が沸き、ホームスチールは最高の見せ場であった》

 ■戦後復活した伝統の一戦
 実満戦は、戦争が激しくなった昭和17年を最後にいったん終了。都市対抗野球も同年で中断される。だが、満州っ子の“野球熱”はさめることはなかった。
 終戦後の21年11月、大連に残されていた浜崎や興行界で活躍した小泉吾郎、安藤忍らが奔走し、「難民救済資金募集事業」の名前で伝統の実満戦が復活する。主催は、大連居民住宅割整募捐委員会と中蘇友好協会。3日間行われた試合の入場券の売り上げは、主に満州の奥地などから引き揚げてきた日本人の生活救済に充てられた。
 安藤徹は復活した実満戦を観戦している。「戦争が終わり、やっと野球が見られると思った。でも進駐してきたソ連人は野球を知らないから、なかなかウンと言わない。『チャリティー』ということで、ようやくOKが出たんです。試合前に『労働歌を歌うこと』が条件でした」
 出場選手の中には、浜崎や実業から巨人に入った津田四郎の顔もあった。だが、戦死・戦病死をした選手も少なくない。アメリカのファンをうならせた田部もまた、昭和20年6月の沖縄戦で、米軍の機銃掃射を浴び、壮烈な戦死を遂げていたのである。
 実満戦の復活に尽力した小泉は戦後、女子プロ野球を創設した。そして、満州の縁で安藤忍や山本栄一郎(大連実業、巨人)も女子チームの監督を務めることになる。
=文中敬称略(喜多由浩)


*2014.02.17 産経新聞より(http://sankei.jp.msn.com/life/news/140217/art14021710000004-n1.htm)

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
実父の生まれた年に満州でプロ野球あったんだ。
井出浩司
2014/03/31 17:48
彩流社から刊行された『天才野球人田部武雄》(菊池清麿・著)を読み、田部武雄の満洲球界での活躍を知る。
気球の旅
2014/10/08 10:28

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