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zoom RSS 【満州文化物語】(8)「李香蘭」 ラジオ放送から生まれた

<<   作成日時 : 2014/03/16 13:36   >>

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 産経新聞の月一連載「満州文化物語」です。

 ■大人の事情に苦しみ続け
 満州映画協会(満映)の看板スター、『李香蘭(りこうらん)』(元参院議員・大鷹淑子(よしこ)、1920年〜)は、どうやって生まれたのか? キッカケは昭和8(1933)年、奉天(ほうてん)(現中国・瀋陽)で、あるリサイタルの前座に出たところを奉天放送局幹部の目にとまり、歌謡番組「満州新歌曲」に出演したことだった。
 彼女は当時、現地の女学校に通いながら、歌のレッスンに励んでいた13歳の少女。もちろん、日本人である。
 満鉄にいた父親と親しかった中国人将軍の「形式上の養女」となって、つけてもらった中国名が李香蘭。奉天放送局歌謡番組の専属歌手としてスカウトされた際、この名前を芸名として使ったのは主に“大人の事情”だったといっていい。条件が「中国人少女」となっていたからだ。
 自伝『李香蘭 私の半生』にはこうある。《「満州新歌曲」は、古くから中国に伝わる民謡や流行歌をアレンジしたり、新曲を募集したりして、満州国の国民歌謡に指定して放送する“日満親善”“五族協和”を唱道する教宣(きょうせん)文化活動の一環だった》
 多民族国家・満州国に“日本の手”で張り巡らされたラジオ放送のネットワーク。その主たる目的が、こうしたキャッチフレーズの宣伝・浸透にあったことは前回書いた。
 だからこそ、この番組の歌手も日本人ではなく、中国人でなければならない。中国で生まれ育った彼女は中国語も流暢(りゅうちょう)。中国名を持っていることを知った放送局幹部はこういった。《放送では経歴の説明は省き(略)「歌は李香蘭」とだけ告げることにしましょう》(同書)
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戦後「李香蘭」は本来の日本人・山口(大鷹)淑子に戻った=昭和43年

 やがて少女は満映の女優となり、看板スターとしての階段を駆け上ってゆく。『李香蘭』は独り歩きを始め、もはや後に退けない状況になってしまう。だが爆発的人気とは裏腹に彼女は中国人のフリをすることに人知れず悩み、苦しみ続けることになる。
 同書の共著者であり、自身も満州で少年時代を過ごした藤原作弥(さくや)(元時事通信解説委員長、日銀副総裁、1937年〜)はいう。「後に彼女の映画を一緒に見たとき『こんな映画にも出ていたのね』とオロオロと涙を流されたことがある。『中国の人に申し訳ないことをした』という気持ちが強かったのでしょう」

 ■ドイツでの屈辱をバネに
 そんな李香蘭も、満映理事長を務めた甘粕正彦(あまかす・まさひこ)(1891〜1945年)のことは好意的にみていた。甘粕は関東大震災のときの大杉栄殺害事件の首謀者、満州国建国の黒幕…と“悪名”高い人物だが、満映の基礎を築き、新京(現中国・長春)に交響楽団を作り、満州の文化行政の推進役だったことは、もっと評価されてもいい。
 甘粕には、満州国を一流国にするためには「一流の文化が必要だ」という強い思いがあった。同様の思いは満州の放送人にも芽生えていく。
 満州で放送総局副局長を務め、戦後はラジオ東京(現TBS)編成局長、NET(同テレビ朝日)編成局次長を歴任した金沢覚太郎(かくたろう)は昭和12(1937)年、駐在していたドイツ・ベルリンで満・独交換放送を試みようとしたとき、満州側の軍楽隊による満州国歌の演奏レベルの低さをドイツ人にバカにされた「屈辱」が忘れられなかった。

 いつか満州の地に一流の文化を築き、「内地(日本)や世界に発信してみたい…」。満州の各放送局は、傘下に楽団を抱え、補助金を出して音楽や演劇の育成に力を注ぐようになる。やがて彼らの活動は番組の素材として全満、内地へ向けて放送されてゆく。
 大連放送局には、満州国歌の作曲者のひとりである高津敏(たかつ・さとし)(1886〜1954年)率いる大連交響楽団や女声合唱団などがあった。合唱団には、「タンゴの女王」の異名をとった藤沢嵐子(らんこ)(1925〜2013年)も所属していたことがあるという。
 ラジオ放送は大衆に浸透する強力なツールだ。一般市民を対象にした「のどじまん番組」や学童の合唱コンクールなども盛んに行われるようになった。撫順(ぶじゅん)や新京で少年時代を過ごした濱地(はまち)勝太郎(1928年〜)は小学校6年のとき、奉天放送局で行われた合唱コンクールに参加したことがある。「紀元2600年を記念した大会でした。同局には、撫順中学(旧制)のハーモニカバンドも、よく出演していた。演奏のレベルは結構高かったですよ」

 戦後、NHKアナウンサーやNETディレクターを務めた山下規嘉(のりよし)(1933年〜)は小学生のとき大連放送局で、連続ラジオドラマに出演した。「連続放送劇『シナ靴の秘密』というタイトルだったかな。ボクの役は主人公の『いさむ少年』。重慶(中国・国民党政権)のスパイを見つけてやっつける物語。全満の放送だったので、『いさむ少年』の名前は一躍、有名になりましたよ」
 甘粕や金沢の思いは終戦によって、はかなく終わってしまう。ただ、すべてがゼロになったわけではない。
 戦後、満州から引き揚げてきた放送人の多くは日本の放送局に入った。山下がいう。「各民放に旧満州放送人の人脈が息づいていた。『いさむ少年』を覚えてくれててね。NHKを辞めたときも(NET編成局次長の)金沢さんが誘ってくれたのですよ」=文中敬称略(喜多由浩)


 *2014.01.27 産経新聞より
(http://sankei.jp.msn.com/life/news/140127/art14012712300001-n1.htm)

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コメント(1件)

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国会議員になってもきれいな人でしたね。
井出浩司
2014/03/16 20:52

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