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zoom RSS 【満州文化物語】(7)「東洋一」を誇った放送 森繁、糸居もアナで活躍

<<   作成日時 : 2014/03/02 12:09   >>

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 産経新聞の月一連載「満州文化物語」です。

 ■当時から芸達者で有名
 終戦直前、「酒がふんだんに飲める」という誘い文句につられて慰問団に加わり、満州へ渡った落語家の5代目古今亭志ん生(1890〜1973年)は満州国の首都・新京(現中国・長春)で“面白い男”と出会う。
 《新京放送局の下廻(したまわ)りかなんかで(略)はたらいていた若い男がいたんです。その男てえのが、いま日本の映画界でものすごく売りだしている森繁君…》(志ん生の自伝『なめくじ艦隊』)。後の名優、森繁久弥(もりしげ・ひさや)(1913〜2009年)のことである。

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 森繁は、早稲田大学から東宝劇団などを経て昭和14(1939)年、新京放送局のアナウンサーになった。さっそく派遣されたのが同年、日ソ両軍が激戦を展開したノモンハン事件の戦場。現地取材や民族音楽の録音に満州中を駆け回る一方、満州映画協会(満映)映画のナレーションや、自局のラジオドラマの作・演出も手掛けている。
 当時から“芸達者”でも有名だったらしい。志ん生らプロの芸人を前にした宴席でやった余興が大ウケ。志ん生から《東京へきて、寄席にでも出たら、きっといい売りもんになるよ》(『同』)と太鼓判を押された。オペラ歌手・藤原義江(よしえ)の前では本人よりうまい声帯模写をやってのけたエピソードも残っている。
 大連放送局のアナウンサーには、後にニッポン放送の深夜番組などで活躍した“元祖DJ”糸居(いとい)五郎(1921〜84年)がいた。入局は先の大戦が始まる昭和16年。自伝『僕のDJグラフィティ』にはこうある。《息苦しくなった当時の若者たちの新天地に満州があった》《(アナウンサー試験には)八人の定員に三千人以上が応募した。当時もアナウンサー病患者が多かったんだね》
 当時、大連の小学生で、後にNHKアナウンサーやNET〈現テレビ朝日〉ディレクターを務めた山下規嘉(のりよし)(1933年〜、旧制大連3中−成蹊大)は糸居のことを覚えている。「僕は大連の小学生から選ばれる放送局の“豆記者”。世話役を務めてくれたのが若き日の糸居アナでした。イイ声でね。随分、女性にモテたんじゃないかな」

 ■放送開始は東京と同年
 満州における「放送」の歴史は古い。大正14(1925)年8月、関東庁逓信局が大連(コールサインJQAK)で実験放送を行った。これは、内地の東京放送局(JOAK、後の日本放送協会=NHK)などのスタートと同じ年にあたる。
 やがて、新京、奉天(現中国・瀋陽)、ハルビンなど満州各地からも放送を開始。昭和8年には、日満合弁の満州電信電話(電電)株式会社が設立され、各放送局を引き継いだ。11年には新京に、満州全土をカバーする100キロワットの長波送信施設が完成。「東洋一」の規模を誇った。まだ、内地のJOAKなどが50キロワットだった時代に、である。
 満州国は「五族協和」をスローガンに掲げる多民族国家だ。放送は、その理念を宣伝し浸透させる重要なツールとして位置づけられていた。だから、日本人を対象とする日本語の第1放送とは別に、中国語、ロシア語、朝鮮語などの第2放送が設けられ、森繁や糸居のような日本人アナウンサーに加えて、中国人(満人)アナウンサーの養成も行われている。

 放送するプログラムは、満州独自に制作したものと、提携する内地の日本放送協会から短波で中継を受けるもの(ニュース、経済市況など)が約半々で編成されていた。逆に満州から内地へ中継する放送もあり、13年の記録には、満州が誇る「ハルビン交響楽団」の演奏や、関東軍参謀・片倉衷(ただし)による「満州事変七周年記念日に当たりて」という講演も見られた。
 内地にはない、もうひとつの特徴は「広告放送」の実施である。放送総局副局長を務めた金沢覚太郎(かくたろう)(戦後、ラジオ東京〈現TBS〉編成局長など)が書いた『広告放送の性格』によると、満州における広告放送が本格的にスタートしたのは14年から。《「宣伝」の意味の拡大ということと、放送経費資源の開拓ということを目標とし(略)当時の監督官庁を説得するのには、かなりの努力を要した》と振り返っている。

 『満洲放送年鑑』によれば、昭和9年当時の聴取料は月額1円。同年末の聴取契約者は約1万2000にすぎなかったが、急ピッチで普及し、大戦末期の19年1月には約60万に達した。このころになると、中国人の聴取者が日本人を上回り、ラジオ放送が広く満州の地に根付いていたことがうかがえる。
 満州の撫順(ぶじゅん)や新京などで少年時代を過ごした濱地(はまち)勝太郎(1928年〜)の家には、4球スーパーと呼ばれる真空管の箱形ラジオがあった。「たいていは一家に1台ラジオがあった。今のテレビのような存在だったでしょうか。開戦(昭和16年12月8日)を知らせるニュースが内地から飛び込んできたことは今もよく覚えていますよ」

 満州における放送の普及は、やがて「素材」となる文化の発達を促すことにつながってゆく。各放送局が傘下に楽団を抱えたり、補助金を出して演劇や音楽活動を支援した。満州独自の文化を創(つく)り上げ内地や世界に向けて発信したい…満州の放送人はそんな夢を描くことになる。=文中敬称略(喜多由浩)


*2013.12.16 産経新聞より(http://sankei.jp.msn.com/life/news/131216/art13121610580003-n1.htm)

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コメント(1件)

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日本だったころは、良いこともいっぱいあったと思います。森元総理にきいてみたい。
井出浩司
2014/03/02 17:23

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