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zoom RSS 【満州文化物語】(6)牧野家と小泉家 カツドウ屋が描いた夢

<<   作成日時 : 2014/02/15 22:21   >>

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産経新聞の月一連載「満州文化物語」です。

■「マキノ人脈」で満映へ
 劇団四季のミュージカル「李香蘭(り・こうらん)」は戦争に翻弄され、日本人なのに中国人として満映(満州映画協会)の看板女優となり、終戦後は(中国を裏切った)「漢奸(かんかん)」の疑いをかけられた彼女(元参院議員・大鷹淑子(おおたか・よしこ)、1920年〜)の半生を描いた作品だ。自虐史観のトーンが強いところが気にならないでもないが、この作品によって李香蘭や満映のことを知った人も多いのではないか。
 満映は昭和12(1937)年、満州国の首都・新京(現中国・長春)に設立され、終戦まで、たった8年間存在した映画会社である。
 戦争の影が濃くなるにつれて、満映には内地から多くの映画人がなだれこんできた。監督では、内田吐夢(とむ)や木村荘十二(そとじ)、脚本の八木保太郎、カメラの杉山公平…。満州は終戦直前にソ連軍が侵攻してくるまでほとんど空襲もなく、貴重品の映画フィルムや食糧も内地より豊富。「映画づくり」を続けたいカツドウ屋たちがこぞって新天地・満州を目指したのである。
 満映の製作部門の責任者に就任した根岸寛一・元日活多摩川撮影所長(1894〜1962年)と“片腕”であるマキノ光雄(1909〜57年)の人脈によって渡満した映画人も多い。大連にあった流行最先端のショッピング街・連鎖街(れんさがい)の映画館「常盤座(ときわざ)」の支配人、小泉吾郎(ごろう)(1908〜87年)を創設間もない満映に誘ったのも2人だ。
 牧野家と小泉家の関係は深い。マキノ光雄の父、牧野省三(1878〜1929年)は「日本映画の父」と呼ばれる草創期の大監督・プロデューサー。光雄の兄、マキノ雅弘(1908〜93年)は監督として東映の任侠(にんきょう)映画などでヒットを飛ばす。俳優の長門裕之(1934〜2011年)、津川雅彦(1940年〜)兄弟は省三の孫だ。
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 常盤座の経営者で吾郎の長兄、小泉友男(1897〜1976年)は内地時代から省三と親しく、やがて家族ぐるみの付き合いとなる。常盤座では「マキノ映画」をかけることが多く、マキノ雅弘が大連を訪問したときは小泉兄弟が世話をしたという。
 満映に入った小泉吾郎の仕事は満州中を回り、スター候補となる中国人の新人俳優をスカウトすることだった。ロクに中国語ができない吾郎は苦労もしたが、気鋭の映画人との仕事には刺激を感じたようだ。自伝「わが青春と満映」にはこうある。《(満映は)設備は不十分だが、新しい満州の文化をつくろうとする活気が溢(あふ)れていた》と。

■一流芸術家の「呼び屋」
 満州は、満鉄・シベリア鉄道でヨーロッパとつながっている。世界の一流音楽家などが訪れ、演奏会を開いていたことは以前書いた。「満州年鑑」を見れば、昭和10、11年の来演者として、ティボー、ジンバリスト(バイオリン)、クロイツァー(ピアノ)、シャリアピン(バス歌手)、三浦環(たまき)(ソプラノ歌手)など、そうそうたる顔ぶれが名前を連ねている。
 大連には、こうした演奏会を開く大ホールとして、満鉄が経営する協和会館があり、歌舞伎公演など演劇の場合は大連劇場があった。それらに次ぐ劇場が、小泉兄弟の常盤座だったのである。常盤座時代の吾郎は出演者の“呼び屋”としても活躍した。
 再び「わが青春と満映」を引いてみよう。《今でも自慢できる大興行は、歌舞伎では中村吉右衛門一座、中村鴈治郎(がんじろう)一座(いずれも初代)。シャリアピン、三浦環、藤原義江は協和会館…だが、その他の流行歌手はほとんど私の手になる。徳川夢声(むせい)を全満に紹介したのも私…》
 常盤座は本来、映画館だが、客席数は1200。経営者・小泉友男の長女、初枝(1927年〜、大連・弥生高女)は、「歌舞伎をやるときは、客席に板を渡して即席の花道を作りました。当時、女学生だった私たち姉妹は出演者に花束を贈呈する役でしたね」と振り返る。
 終戦後、常盤座は中国側に接収されてしまう。邦人は引き揚げもかなわず、息を潜めているような生活が続いた。「そんなときこそ娯楽が必要だ」と立ち上がったのが小泉兄弟である。大連に残された芸人らを集め、劇団「羽衣座」を立ち上げた。《かつての映画の準スター級もいるし、旅芸人の座長格も、新劇上がりも…》(「同」)
 その中には、落語家の6代目三遊亭円生(1900〜79年)も交じっていた。「大岡越前守」役である。みんな娯楽に飢えていたから、連日超満員の札止め。先の見えない不安にかられる邦人たちを一時でも元気づけたのである。
 吾郎は戦後、日本初の女子プロ野球を創設して話題を集めたのは前回書いた通り。次女の汀(みぎわ)(1933年〜、大連・神明高女)によれば「(父は)自由奔放、好き勝手にやりたいことをやって生きたと思う。女子プロ野球のときは選手を二十何人も自宅に住まわせ母が大変な苦労をしていたのを覚えています」
 牧野家と小泉家の関係は戦後も続いた。初枝はマキノ雅弘が撮影をしている京都にも遊びに行ったという。常盤座は戦後、中国電影という中国の映画館となり、その後、電気機械関係の工場になってしまった。オシャレな映画館はすっかり様変わりし、大連っ子の娯楽の殿堂だった往時の面影はない。=文中敬称略(喜多由浩)


*2013.11.18 産経新聞より(http://sankei.jp.msn.com/life/news/131118/art13111809000004-n1.htm)

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コメント(1件)

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長門・津川兄弟はすごい家だね。単純におぼっちゃん家系ではないんだ。
井出浩司
2014/02/16 09:32

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