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zoom RSS 【満州文化物語】(5)歌や芝居に残る「連鎖街」 サザンやミフネ、格さんも

<<   作成日時 : 2014/01/25 21:51   >>

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 産経新聞の月一連載「満州文化物語」です。

 ■流行の最先端をゆく街
 父親が大連で幼少期を過ごしたという、サザンオールスターズの桑田佳祐(けいすけ)(1956年〜)が作詞・作曲をし、妻の原由子(ゆうこ)(同)が歌った「流れる雲を追いかけて」に、「連鎖の街」が出てくる。昭和4(1929)年、大連にできた当時、東洋一とうたわれた流行最先端のショッピング街・連鎖街(れんさがい)のことだ。
 曲の舞台は戦前・戦中の満州。「ハルビン行きの列車」は、満鉄自慢の超特急「あじあ」を連想させるし、当時、大連に多かった「ダンスホール」(連鎖街の近くには、第1回で紹介した「ペロケ」があった)も登場する。
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 大連に関心を持っていた作家、井上ひさし(1934〜2010年)も「連鎖街のひとびと」という芝居を書いている。大連駅前の約1万3千坪の敷地に総鉄筋コンクリート造、ショーウインドーを備えたスマートなビルがつながって建っているから連鎖街。
 高級紳士服や婦人服を扱う今でいうブティック、中華や和食のレストラン、カフェにフランス風の喫茶店、洋画専門映画館やレコード店、書店…。一流どころの約200店が進出、遊園地や公衆浴場もあり、まるでテーマパークのよう。たちまち、大連一の繁華街・浪速町(なにわちょう)と肩を並べるほどの新名所になった。
 1階が商店、上階は住宅で、大連初のセントラルヒーティング、全戸水洗トイレを完備。当時、連鎖街にあった「丁子屋(ちょうじや)洋服店」の三男、秦源治(はた・げんじ)(1926年〜、旧制大連二中−南満工専)は、「連鎖街に店を構えることが、ひとつのステータスシンボルになっていた。セントラルヒーティングのおかげで、真冬でも寒さ知らず。清潔感、高級感漂う街でしたね」。

 ■著名人ゆかりの店並ぶ
 後に世界的なビッグスターとなる三船敏郎(1920〜97年)の父・徳造が経営する写真館も連鎖街にあった。その名も「スター写真館」。当時の地図を見ると、中華料理の大店「扶桑仙館(ふそうせんかん)」と銀座通を挟んだ向かいの2階に店はあった。
 連鎖街で父親が、割烹(かっぽう)「互楽(ごらく)」を経営していた渡辺勝美(かつみ)(1924〜、旧制大連中−明治大予科)は「浪速町は木造建築で雑然としているが、連鎖街は鉄筋コンクリート建てで整然としている。写真館は三船さんの店のほかに2つか3つはあったかな」
 連鎖街には、テレビ時代劇「水戸黄門」の格さん役などで知られる横内正(ただし)(1941年〜)の家もある。心斎橋通に面した「横内洋品店」。その右隣の「バーパコダ」は、画家・岩田専太郎(1901〜74年)の妹がママさんをやっていたという。
 大連・弥生高女出身の作家、松原一枝(1916〜2011年)の「幻の大連」にもダンスホール「ペロケ」のダンサーが連鎖街の公衆浴場に通う様子や喫茶店「マルキタ(果物店)」のエピソードが書かれている。女学生たちにとっては、ちょっと背伸びして憧れる魅力的な街だったのだろう。
 東京ならば、さしずめ銀座か青山か…。いやいや当時の関係者の気概は、もっと大きかった。大連連鎖商店事務所が作ったパンフレットにはこうある。《東京の銀座、大阪の心斎橋以上であります。アメリカのフィフス・アベニュー(五番街)やブロードウエイなどと比べても見劣りは致しません》と。

 ■志ん生・円生も出た劇場
 その連鎖街にあった映画館が「常盤(ときわ)座」である。洋画専門映画館だが、歌舞伎や落語、歌手の公演もやった。再び当時のパンフレットを見てみよう。《モダーン、ドイツ式の建築…満州唯一の設備を備え、収容人員1200人、感じのよい廊下とバルコニーをもっております》
 戦時中、慰問興行のため、満州に渡った落語家、6代目三遊亭円生(1900〜79年)の自伝「寄席育ち」には、終戦直前の昭和20年8月13、14日の2日間、常盤座で落語をやったことが記されている。連載第1回でも書いたが、終戦後円生は、一緒に満州に渡った5代目古今亭志ん生(1890〜1973年)とともに満州から帰れなくなり、そのまま大連に居続けるハメになった。
 常盤座の経営者の長女にあたる小泉初枝(1927年〜、旧制大連弥生高女)は大連で困窮生活を送っていた志ん生・円生を自宅に招いて落語をやってもらったことを覚えている。
 「昭和21年ごろだったでしょうか。外は危ないし娯楽もないので、各家庭が順番に志ん生さんらを呼んだ。座敷に座布団を敷いただけの“高座”を作りましてね。お礼に食事を差し上げたり、いくらかは包んだようですが、志ん生さんは、お酒のほうがよかったみたい」
 常盤座で経営者の長兄を助け、支配人を務めたのが、やはり第1回に登場した小泉吾郎(1908〜87年)。大正15(1926)年兄を追って満州に渡り、満映(満州映画協会)や関東州興業宣伝部長として、興行界で活躍。戦後は日本初の「女子プロ野球」を立ち上げる立志伝中の人物だ。小泉兄弟は終戦後、大連に留め置かれた日本人を楽しませるために大奮闘する。それは次回に書きたい。=文中敬称略(喜多由浩)

*2013.10.21 産経新聞より(http://sankei.jp.msn.com/life/news/131021/art13102108200003-n1.htm)

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
ま、すごい町一気に作ったんだよよね。新幹線の原型も作った。
井出浩司
2014/01/26 22:01
満鉄の「あじあ」号ですね。
管理人
2014/01/27 09:10

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